2008年03月23日 コメント (21)
言葉の難しさ。
息子のモユルは自閉症という発達障害を抱えています。特に見た目では全く分かりません。遊んでいる姿を見ても、障害を抱えているなんて思いも付かないかもしれません。自閉症の子では極々ありふれた姿です。
しかし、その子の親に対して「大丈夫よ、普通だよ。頑張れば治るわよ」と言ってしまうのは、非常に際どい発言でもあるんです。実際、よく言われる言葉です。もちろん、激励の意味で言ってくれているとも分かりますし、単に無知なだけとも理解できます。でも、自閉症は「治ることは無い障害」なのです。人によっては、あまり良い気分がしない言葉にもなってしまいます。
僕はいちいち、そんな言葉で傷ついたり、気にし続けるような事は無いと思いますが、このブログは現在、障害を持った方やご家族、関係者の方からもご覧頂いています(そう思っています)。その事もあって、僕個人の考えをしっかりと示しておきたくなりました。

兄妹仲良く。
カメラ: Hasselblad XPan
フィルム: Fujifilm Press 800(品質保持期限切れ)
レンズ: Hasselblad 90mm F4.0 もしくはHasselblad 45mm F4.0
なぜいきなり、こんな話をし始めたかというと、先日のエントリーで頂いたコメントをきっかけとして、ものすごく考える事があったからなんです。詳しくはそのコメントへの僕の返信をご覧頂ければ良いと思いますが、もっと多くの方にも気付いていただけるようにと思って、ここにも書いてみることにしました。
ひょっとしたら、「現実が分かっていない」とか、「理想論でしか無い」と思われる方もいらっしゃるかもしれません。でも、書く事にします。
注1:頂いたコメントの一部を拝借していますので、実際のコメント内容とはニュアンスが異なることをご了承ください。あくまでも、今回のブログのネタとして使っています。詳しくはその原文をご覧頂くのが一番だと思います。
注2:このブログエントリーの内容は基本的に、先天的な障害を持った者についての視点で書いています。
注3:ご指摘などによっては、今後も内容を書き直す可能性があります。

楽しそうです。
カメラ: Hasselblad XPan
フィルム: Fujifilm Press 800(品質保持期限切れ)
レンズ: Hasselblad 90mm F4.0 もしくはHasselblad 45mm F4.0
>>うちの母は、『うちの子は、普通の子です。普通の学校に通わせます』と言い
>>切り(養護学校ではなく)普通の小学校に通わせたそうです。
昔は特に劣悪な環境だったと聞きますが、今でも環境が良くなかったり問題があるところもあるかもしれません。さらには普通学級だとしても理解が足りないところもあるでしょう。でも、僕が言いたいのは養護学校に通う子も「普通の子」だし、養護学校も「普通の学校」だということ。世間一般的にはそう思われていないのが現状かもしれないけど、養護学級は、普通の学校でサポートしきれない、他の子にはない特徴(世間一般にはそれを障害と称します)を持った子を適切にサポートし、伸ばしてあげられるような人員と、そのための環境がある場所です。
ついでにもう一つ。
もし、しっかりしたサポートが望めないような地区で、何年間も友達もほとんど無く、周りからの理解も得られない環境で、ただ授業に参加しているだけという無駄な時間を過ごす可能性が高いようなら、僕は同じ様な境遇の子がいる養護学級へ行かせることを選ぶでしょうね。
学歴に残ると子供の将来が心配だ。とか、普通の学校に行けなくて可哀相だ。という様な意見が出てくる可能性もあります。(「今の仕事を続けられなくなる」というような事はとりあえずカット)
でも、僕はこう考えます。本当に子供の幸せを考えたら、それらは全く関係ありません。問題はそんなことではなく、親がどれだけサポートしてあげられるか、子供の良い点、可能性を伸ばしてあげられるかが一番重要じゃないでしょうか。健常者の子だって全く同じですよね。障害を持った子供の親には、その負担が多少なり増えるだけのことです。
たとえ重度の障害を抱えていて何も出来ない子だとしても、周囲からはそう見えなくても、その子にとってはそれが一番幸せな人生です。その子が安心して生活できる様にサポートするのが親や社会の役目ですよね。
まだまだ書けそうだけど、これはここで終わり。

ジャンプする二人。
カメラ: Hasselblad XPan
フィルム: Fujifilm Press 800(品質保持期限切れ)
レンズ: Hasselblad 90mm F4.0 もしくはHasselblad 45mm F4.0
>>(兄は)社会人としてやっていけてるし、
これも際どい言葉だと思います。障害を持っていても「社会人」ですし、補助が無いと生活できないとしても「社会人」です。
日本では学校を卒業して就職すると「社会人になった」と良く言いますが、正しい意味での「社会人」は、社会を構成する一員の事。要するに障害の有無に関わらず、全ての人です。もし将来、仮に僕の息子のモユルが自立してやっていけないとしたら、それは「社会人では無い」のでしょうか?そんな事ありませんよね。
僕が理想論、やけに前向きな考え方なのかもしれませんが、皆さんはどう考えられますか?
でもね、極端な話、障害を持った子たちは考え方も全然違う子が多い(実際そう。時々、その中から天才と言われる人が現れる)わけだから、僕たちが言う「幸せ」の解釈だって全く違う可能性もあるんですよね。
たとえば自閉症は1000人に一人から二人の発症率と言われています。超特別な限られた人なんです。僕たちなんて、彼らから見たら世間一般多数の凡人でしかないかもしれません(笑)。僕がこんな風に、早く寝なきゃなんて思いつつ、ブログ上でブツブツ語っているのも、ばかばかしいって思われていたりして(笑)。
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コメント
う~ん。考えさせられますね。
「普通」って何なんでしょうね!?
でもIQの高いアスペの子は日本では普通学級でも養護学級でも浮いてしまうのが現状です。
支援法ができても、専門家の人数の関係か(医師も少ない)今までとなんら変わっていません。
親がしっかりとサポートしてあげなければ。
本人が幸せだって思える様にしてあげたいですね。
投稿者 akoako : 2008年03月23日 11:41
コメントをさせていただくのは、初めまして。
少し前から、可愛らしいお子さま達と美しい風景を拝見させていただいています。
私は教員をしておりまして、障害のあるお子さん達と過ごす年月が長いですが、通常の小学校でも子ども達と接した経験があります。そして今、学校での仕事の他に市の就学指導に関わる仕事もしています。
保育園や小学校から相談を受け、配慮が必要と思われるお子さんの検査や面接をし、学ぶ環境として今の教育現場ではどこが一番望ましいかを考えます。そして、その資料を基に識者の方々数人が判断し、教育委員会として方向を保護者の方にお伝えします。私はその判断の原案を作るわけです。
今回、イクルさんのコメントを読んで、私のいつも思っていることをおっしゃってくださった!と感激しました。私もそう思います。長くなりますので、全面的に共感するとだけ書きます。
それとともに、ジョゴさんのお母様のお考えもわかります。イクルさんがおっしゃっているように言葉の持つ意味を感じる立場の違いなんだと思います。
私事で恐縮ですが、特別支援学校で学ぶのが良いと判断されても、いろいろな理由で通常の学校に通わせたいとおっしゃる保護者の方には、このようなことを申し上げています。
1 障害があることは不幸なことではなくて、不幸になるとしたらそれは周囲の私達も含めた共に生きる人達の問題だと思います。
2 どちらの学校に行っても、それぞれのメリットとデメリットはあります。デメリットを数え上げてもお子さんの成長につながりませんから、メリットを十分に活かしてあげてください。
3 お子さんのためにご両親が考えて悩み抜かれて出された結果は、お子さんにとって最良の方向だと思います。だから(通常小学校を選んだ)ご両親も一緒に頑張ってください。
4 お子さんに対して必要なことが起きたら、またこちらに相談に来てください。
ジョゴさんのお母様はお兄様の隣で、一歩前で、一生懸命サポートされたのでしょう。
イクルさんの障害感というか、お考えに私は勇気づけられました。理想論とは思いません。もしそう言われたら、私はこう言います。「理想論だから?それを求めるのが教育だし、それに向かっていくのが社会じゃないですか?」
モユルさんの成長を楽しみにしています。
投稿者 KANA : 2008年03月23日 12:07
研修で、障害児の親の支援について勉強しました。
「言葉」の難しさについても触れていました。
例えば、今は専門家の間では「健常児」は使いません。「定型発達」といいます。
「普通」という言葉も微妙なニュアンスを含みますね。
何気なく使う言葉も、受け取る側の立場や状態によって変化します。
コミュニケーションをうまく取りたいのであれば、相手に合わせた言葉選びも必要でしょうね。
ただ、悲しいかな、「気持ち」はあってもなかなか上手くいかないこともありますね。
私が思うに、やはり相手を理解することが大切で、とにかく理解したいと思うことが第一歩なのでしょう。
それが「愛情」
(だから、この間のイクルさんのモユルくんのことをもっと知ろうとする姿勢に感動したのです。)
障害は病気ではありません。
治る、治らないではなく、いわば個性。
モユルくんの個性を広い心で受け止めようとしているイクルさんを尊敬しています。
子どもはどんな子も、いつでもどこでも愛されるべきです。
それだけは、いつの世も万国共通なはずです。
人って色々難しいけど、素晴らしい。
投稿者 tenten : 2008年03月23日 12:17
「自閉症」っていう言葉、違うなーと、感じています。決して、自ら閉じているわけでも、自分で閉じこもっているわけでもないのにな、と、小学校の時の自閉症の友だちを思い出しながらそんなことを思いました。
投稿者 nz : 2008年03月23日 12:54
写真とお子さんみたさに、時々拝見しています。
社会人云々の話ですが…。
西江雅之さんの言葉に、
「人は生まれ落ちたときから社会人だ」
というものがあります。
学校を出たから(大学や高校を卒業してから?)社会人というのは
ものすごく甘い(というか、「偏っている」)考え方ではないでしょうか。
むしろ、(すでに)社会人だからこそ、この世界でどうにかこうにか
「やっていく」すべを見つける/作ること、なんではないでしょうか。
社会人ではない人なんていないはずです。
投稿者 sa : 2008年03月23日 12:58
言葉を突き詰めていくと、これは大変なことになります。
それは、何を話題にするにも同じことです。
悪意のないお互いであれば、その表現の違い、考えの違いを前提とし、
それを許容できて初めて公で語られるべきだと思います。
また、敢えて書かせて頂くなら、
「社会人」には「社会の構成員」という意味もありますが、
「実社会で働いている人」という意味もあります。
(この際、自立できるできないは関係ありません。)
つまり、この意味において学生や生徒、無職の人を社会人とは言いませんね。
言うまでもなく言葉にはいろいろな意味がありますし、それをどの意味で使っているかは、
読み手の方でも出来るだけ汲み取る努力は、されて然るべきでしょう。
誤解のないように記しておきますが、
私は、イクルさん、モユルくんの人生については申しておりません。
男であろうが女であろうが、障害があろうがなかろうが、
それはどれもこれも生きるということであり、今、私がここで申し上げることはありません。
結局、言葉に敏感になることは、結局は人の違いに敏感になることだと思っています。
投稿者 デュー : 2008年03月23日 13:09
この世の中に一人として同じ人間がいないということ
そしていろいろ違っていていいんだ、ということ
でもそのことを自然に心から受け入れられる人間ってどれだけいるんだろう。
それが出来たらみんな幸せになれるのに...
先進国に住む者達ほど抱え込まなければいけない大きな課題なのでしょうね。
投稿者 かざぐるま : 2008年03月23日 17:31
テスト、テスト。
う~ん。
少し軽くなった…?
やっぱりまだ重いかも。
注意事項の書き足しまで頂き、ありがとうございました。
必要以上にキーを強く押してしまう…。
意味無いのに、人間の心理ですかね。
昔、テレビやラジオを叩いていたみたいに。
投稿者 tenten : 2008年03月23日 18:41
はじめまして。
イクルさんのブログ&キレイな写真をいつも楽しみに拝見させていただいてます。
わたしは3歳10ヶ月の自閉症の長男と、1歳10ヶ月の女の子のママです。
わたしも本当に言葉って難しいと感じています。
気にしていないつもりでも、息子に関する言動にはやっぱり敏感になっていますから。
自閉症って「自閉症」という名称にも関わらず、誰ひとりおなじ症状の子はいない上に
発達障害にもたくさん種類があって、むずかしいです★
息子の将来に不安はありますが、家族で全力でサポートしていきます!
わたしも養護学校でも普通学級でも、その子に合う選択が一番だと思います。
息子は来月から発達センターの通園クラスに入れるので、わたしも息子と一緒に
成長できたらいいなーと思っています。
スウェーデンは自閉症の療育も充実しているみたいですね!
とても興味深いです。またブログで紹介していただけたら嬉しいです。
楽しみにしています♪
投稿者 えりぷう : 2008年03月23日 19:21
とても考えさせれれる ↑ のコメントでした
どうしても・・息子に背伸びさせてしまう傾向がある私
とても心に響きました
投稿者 マーママ : 2008年03月23日 20:27
はじめまして。
以前から、時折おじゃましていました。
今回のブログを拝見して、どうしてもコメントを残したくなりました。
モユル君を、モユル君として、そして、ミチカちゃんを、ミチカちゃんとして
大切に育ててらっしゃるなあ、と、感じます。
私はまだ、子供がいませんが、もうすぐ1歳になる男の子を持つ友達夫婦が、
「子供を、ひとりの人間として、信頼して育てる」という言葉に
感銘を受けました。子供の成長に、大人が妨げになってはいけない、とも。
イクルさんご家族の、お子さんの個性を育てていらっしゃる姿が
ブログから伝わってきて、素敵だな、と思います。
また、おじゃまします。
-shizuka
投稿者 shizuka : 2008年03月23日 22:02
こんばんは 2度目の書き込みになります
私には自閉っ子の息子がいます
言葉ってのは難しいですね
ジョゴさんのお母様の言葉にしても
『うちの子は、(ちょっと変わってるかもしれないけど)普通の子です。普通の学校に通わせます』
特別支援教育の理念のようにも受け取れます
最近 私は言葉を気にしなくなりました
例えば「自閉症」「障害」「普通」「健常児」とか
最近では「健常児」のことを「定型発達」と呼ぶようですが大体「定型」ってなんだよ?って思いませんか?
そんな言葉を気にしていると、逆に私が息子の障害を気にしてるような気になってくちゃうのです
私の息子には自閉症という障害があります
ちょっと変わっているところもあるけど心優しい普通の子です
小学校では自閉級に在籍していますが、授業は普通級で受けています
だけど体育はみんなとやれない事が多いので、自閉級の先生が付いてくれて個別に受けています
なんの問題もありません
先生は息子のことを考えよくやってくれています
そうそう私はカメラはオリンパスのE-3を使っているのですが、最近5Dが気になってしかたありません
とりあえず使ってみなければ判断できないって事で中古5Dを物色しております
投稿者 きんぱら : 2008年03月23日 23:03
akoakoさん
そうですね、「普通」というのはどう定義すればいいのかな。一般多数で、特に特徴も無いありふれた者をさすのでしょうね。
あと、どんなに支援が整った環境があったとしても、親がしっかりしていないといけないんだろうなと思います。
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KANAさん
初めまして。
就学先を決める際にもこのような事が行われているんですね。日本全国どこでもそうなのかは分かりませんが、大変参考になりました。言葉の意味、人によって違う解釈の仕方は本当に難しいです。英語でも身障者をも意味するDisabledや、Handicapという言葉でさえも使用を避けるといいますからね。僕はてっきりハンディキャップという言葉には問題ないと思っていたので意外でした。
4つの項目も非常に参考になりました。その通りだと思います。色々な事を、失敗もあるかもしれないけど試行錯誤して進んでいくのが教育であり、そして文明社会ですよね。
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tentenさん
>「定型発達」といいます。
なるほど、学問的にはこう言うんですね。多数の中に含まれるとこれということですね。僕も機会があれば、日本語で受けられる講座に参加してみたいです。
やっぱりコメント入力は重たいですか。何が問題だろう?
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nzさん
>「自閉症」っていう言葉、違うなーと
これは良く言われていることみたいですね。自閉症に関する研究が始まった時代に作られた言葉で、最新の症状分析とは見合わないけれども、使われ続けているようです。言葉に用いられている漢字から意味を読み取ろうとすると変ですが、言葉全体で捉えられると良いのかもしれませんね。
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saさん
>人は生まれ落ちたときから社会人だ
同意いたします。社会を構成する一員なのだから当然ですよね。それだからこそ、子供は保護されるべきだし、障害を持っている者もサポートされてしかるべきです。
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デューさん
申し訳ないのですが、おっしゃりたいことが今一つ良く分かりません。
>悪意のないお互いであれば、その表現の違い、考えの違いを前提とし、 >それを許容できて初めて公で語られるべきだと思います。
「お互いが許容しあってやっと公で語れる」というのはちょっと無理があると思います。発信の場が、論文でも、専門書籍内でも、テレビでも、ネット経由だとしても、それらは必ず、不特定多数の人の目に触れる可能性がありますので、その考えを成り立たせるのは困難だと思います。「私のブログをご覧頂くには、自閉症の事についての基本的な知識、社会のサポート状況などを理解されている方のみに限らせていただきます」などとは間違っても言えません。
おそらくこれも、言葉の受け取り方の相違による誤解かも知れませんね。
>「実社会で働いている人」という意味もあります。
日本では「社会人」という言葉をその様に解釈しますし、使うのも構いませんし、私も使います。さらには辞書に載るほど普通名詞化している事も理解しています。今回の場合は、障害を持った方の家族など当事者にとっては、デリケートな言葉だという意味で書かせていただきました。
しかし、「実社会で働いている人」を「社会人」と称しているのは、私が知っている限りでは日本語だけです。英語で「実社会で働いている人」を言うならば、おそらく「Worker(職を持った人)」が当てはまるはずです。この辺は言語学者に聞いてみたいですね。
>言葉に敏感になることは、結局は人の違いに敏感になることだと思っています。
これも私の無知からか良く分からないのですが、「言葉に敏感になるような人は、人の違いにも過剰に反応する」ということでしょうか?
私は全然構わないと思います。様々なことに敏感に反応できる感受性は、人間の進歩のためにも絶対に必要な事だと思います。ただし、それをどう表現するか、反応として返すかが重要なのではないでしょうか。
うーん、色々と考えられて面白いですね。
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かざぐるまさん
>自然に心から受け入れられる人間ってどれだけいるんだろう。
小さな子供かなあ。でも成長に従って、違いや、考え方などを知っていくのでしょうね。
> 先進国に住む者達ほど抱え込まなければいけない大きな課題なのでしょうね
いやちょっと違うかもしれません。経済的に豊かでゆとりのある先進国だからこそ、この様な事を考える余裕があるのですから、むしろもっと辛い立場にいる発展途上国の子たちを考えてあげるべきです。おそらく30-40年前に日本で現在のような支援体制を作ろうと尽力された方達は同じ様な使命感に燃えていたと思いますよ。
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えりぶうさん
はじめまして。うちの子達と同じ組み合わせ(笑)ですね。年齢差もそっくりです。
本当に発達障害ってたくさんの種類がありますよね。区分はされていても、その当事者のこども達は一人ずつ全く違ったりするし、難しいけど面白いなとも思います。
これからもよろしくお願いします。
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マーママさん
いやいや、それだって間違っていることでは無いですよ。ある程度の刺激(プレッシャー)がある状態は自閉症の子には特に大事だと言いますし、それが息子さんへの強い負担にならなければ良いのではないでしょうか。
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きんばらさん
>例えば「自閉症」「障害」「普通」「健常児」とか
それはすごくありますね。特にメディアなどが過剰に気にしすぎて、言葉を変えようとすると聞きますね。私が気になっているところだと、「障害」を「障がい」「障碍」と置き換えようとするような事でしょうか。
当事者達は何とも思っていなかったり、むしろその言葉に誇りを持っているなんていうケースもあると最近ニュースか何かでやっていました。
気にすることはとても良いことですけど、そんな事をするより、やることがあるのかもしれませんね。
5Dは良いですよー。最近は値段もこなれてきたみたいですしチャンスだと思います。とりあえず、落とさないようにだけ気をつけてください(笑)。
投稿者 いくる : 2008年03月23日 23:05
息子の通っている小学校にも、自閉症と大きな枠の中に含まれる子供が何人か在籍しています。小さい頃からよく知っている子供が多いからか、どの子もとても可愛く感じています。時々、その子達とどのように関わっていったら良いのか、考えることもあるのですが、結局私の出す答えは、他の子供と同じように接していくと言う答えにいきたどります。本当は、色々な専門的なこともあるとは思うのですが、近くのお友達のおばちゃん、として暖かく声をかけ、見守っていくのが今はベストかと思っています。
投稿者 一粒のお米ちゃん : 2008年03月23日 23:52
私が書いた先進国に住む者ほど...と言った事に関して
言葉(特に文章)で物を伝える事ってやっぱり難しいですね。
先進国に住む人達というのは
貧しい国に住む人達から見たら物資や情報に恵まれているのかもしれないけれど
それによって人同士を比べたり競争し合ったりして違いにも敏感になり過ぎる...
だからその宿命として考えて行かなければならないことが多いというか...
いくるさんが返信に書かれたことなどもその中の一つのように思われます。
といった意味で書いた文章でした。
伝わりますか?
投稿者 かざぐるま : 2008年03月24日 00:12
ほとんど…初めまして。
「美しい写真」・「可愛らしい写真」・
「人々・街・木々や鳥の息遣いまで聞こえてきそうな写真」ETC.
に惹かれて最近ここのブログを拝見しています。
あんまりすばらしいので、過去のブログも拝見しているうちに、
「もゆる君が発達障害児」だと知りました。
先回のジョゴさんのコメントへのイクルさんのコメントと、皆さんのコメント
を読んで、私も本当にいろいろな気持ちが沸き起こって来ます。
恐らくは、普段から、考えているご家族や接する機会の多い方と違って、まだ考えも
まとまらず、それでなくてももともと考えをまとめる事がうまくないので伝え
られずに残念です。でも、こういう機会を私に与えてくれたイクルさんのブログには
本当に感謝しています。
こちらは、脇筋2つになりますが、
■言葉の言い換え…私も賛同する部分と、またか…意味有るのかしら?と思う部分と、逆効果ということはないのかしら?と感じる部分があります。難しいです。
■デューさんの
>結局、言葉に敏感になることは、結局は人の違いに敏感になることだと思っています。
は、私には純粋に「なるほど…」と感じられました。
なぜって、次のような事を考えたからです。
…なるほど、自分にとって大切な人や大切な事には人は神経を研ぎ澄ませるから、自然に違いにも敏感になるから、言葉の違いには気づきやすいけれども、逆に「そうでもないこと」や「(別の人から見れば違うけれども)その違いにはあまり関心の薄い事」には自然に敏感になることは難しいから、だから、言葉の違いに気づきにくいのかぁ…。
書いてみたらあたりまえの事に感じるけれど、「言葉を大切にしたかったら人を大切にしましょう。」「人を大切にしたかったら言葉も大切にしましょう。」…と単純に敏感になることを推奨していると思い込んでしまったからなのでした。(←楽観的?)
ある日本語の表現が、同じ日本語を話す人と違う意味を持つことがあるということに明確に気が付いている人も入れば、ほとんど気が付いていない人も居ます。
実は、「普通」とか「標準」は昔は、当たり前の言葉に見えていたのに、今の私には、他の人がどれほどの意味で使っているのか良く分からない事が多い言葉のベストなのです。(しかも、多くの方は私のようには困っていないように見えるので参ります。)
なんだか大切な事の中に少し方向の違う事を書いてしまってすみません。本筋の方もこれから考えてみます。もしかしたらジョゴさんも今たくさん考えていらっしゃるのかしら?
イクルさんの正面からの受け留めに感動すら覚えます。
ブログこれからも楽しみにしています。
※トトロに不正解の青鬼を書いたのは私でした。。(本日2回目投稿です)
投稿者 あおおに : 2008年03月24日 01:00
一粒のお米ちゃんさん
基本的には僕もそれで良いと思います。モユルにもその様にして接しています。ただし、僕たち親の場合はそれにプラス、自閉症の子が苦手とすることをサポートすることも必要なんでしょうね。
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かざぐるまさん
なるほどそういう事でしたか!今度は良く分かりました。同じ様な考えですね。
あ、でも、今また考えることがありました。先進国は確かに経済規模とかだけで述べれば非常に恵まれています。競争はあっても、違いに敏感だとしても、でも、ある程度以上の人間らしい生活を営める環境は保証され整っています。要するにその中だけで考えれば全ての者が平等の社会ですよね。お互いに敏感にならなくても生きていける環境とも言えてしまうかもかもしれません。
それに対して、貧困国は経済規模が小さいとしても、富を得る者とそうでない者の差は極端(裕福な国のそれとは別と考えます)でしょうし、そう考えると、色々なことに敏感にならないと生き抜けない方もたくさんいるわけですよね。
うーん、この辺は考え出すときりがないなあ。。。
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あおおにさん
>意味有るのかしら?と思う部分と、逆効果ということはないのかしら?
>と感じる部分があります
そうですね。先ほどの「障害」を「障がい」と言い換える件についてもそう思います。ちょっと違うかもしれませんが、例えばネット上に「障がい」という言葉を使って情報サイトを開設したとします。しかし、障害の事について知りたい方は「障害」という単語で検索をかける可能性が高いですよね。これはサイト運営者、訪問者双方にとって不利益となりえると思います。言葉を変えたって、本質的な部分は一緒ですね。
>なぜって、次のような事を考えたからです。
そうかそうか、そうとも考えられますね。
>ある日本語の表現が、同じ日本語を話す人と違う意味を持つことがあるということ
これって本当に難しいですよね。
投稿者 いくる : 2008年03月24日 06:31
(具体的に書きますので、長文お許し下さい。)
イクルさん、レスをありがとうございました。
まず、私は常々、できるだけ生活に即して言葉を使いたいと思っています。
最終的に理屈で人は幸せになれないと知っているからです。
従って“もしこうだとしたら”という条件付けの下での話を極力避け、
できるだけ具体的なことを示したいと思っておりますので、よろしくお願いします。
さて、許容云々の話ですが、こう言うとどうでしょう。
イクルさんがご自分で開設なさったブログで表現されること、
これはもちろんイクルさんの責任において、自由なことです。
もちろんイクルさんご自身が仰ったように、不特定多数の人の目に触れます。
それが目的でもありますし、至極当たり前なことですね。
なのに私が「許容」という言葉を持ち出したのは、
イクルさんご自身の考えの表現の為に、いちコメントを本文の記事に転記されてまで、
再びジョゴさんのコメントを用いたこと、まずはこれに疑問を持ったからです。
大事なことだとイクルさんは思われたのでしょうけど、やはりやり方がフェアではありません。
まず大前提として、イクルさんとジョゴさんとではこのブログの中での立場が違う。
(ホストとゲストという意味でも)
そして、ジョゴさんについては、あの書き込みでは何も断ずることが出来ないし、
どう見ても、ジョゴさんはお兄さんを「働く人」として「社会人」と書いている。
この際には、一義的には書き手がどういうつもりで言葉を使っているかが問題ですよ。
その意味から離れてイクルさん独自の定義で語られるならば、
少なくとも他人の別物を引用する場で展開なさってはいけない。
また、workerを目指す者がいてもいいし、そうでない者がいてもいい。
その差も「個人」であると思うし、それが自然だと私は思っていますが、
イクルさんはあくまでも「障害者」としての概念、括りでお話をされていますか。
私にはそこが見えない。定まらない。
個人としての人間の営みに「障害者だからこうあるべき」という考えは、
私自身、一切持っておりませんので(制度や社会、集団を語る時にはまた別です)、
正直、少し戸惑っております。
また「これまで通りに。」の記事の中に、
『しかし、肉体的苦痛を伴うわけでもなく、正しい訓練を経れば、
モユルが受ける精神的苦痛も減らすことができます。
さらに、余命数年というような難病でもありません。
愛する子供を失う辛さと比べたら、
この先にあるかもしれない試練なんか楽勝です。』
という部分がありますが、もしも誰かがこんな風に書いたらどうでしょう。
『うちの子は多少乱暴者でも、長い目で我慢強く接していけば、
お互いの精神的苦痛も減らしていけます。
さらに障害者でもなく一生背負うものでもないことを考えたら、
今のこの苦労なんて楽勝です。』
一体、このふたつにどれほどの違いがあるでしょうか。
生まれる前から短い余命が区切られている、難病の子もいる。それも困難です。
生まれながらに障害を持っている、命のある子もいる。それも困難です。
誤解のないように加えますが、これはイクルさんの発言を責めるものではありません。
あの記述はイクルさんの本当の思いであっただろうし、
イクルさんでなくとも、多くの人がそう思うものでしょう。
私も痛いほどにその気持ちの真意を察してはおります。
しかし、本意ならずも言葉に表すと、また別の人にとってはなかなかに厳しいことを、
ブログ上でなさっていることはありませんか。(私にもそのようなことがあるかもしれません。)
言葉をデリケートに使いたいという願いがブログ上で見受けられるだけに、
私にはとても残念でした。
言葉の限界とは、案外身近にあるものです。
会話における言葉に敏感である先には、知らず知らずに人にある違いに敏感になり、
自分の違いに鈍感になりがちだと、私は自己に戒めています。
そして本来、言葉に敏感であるとは、
あくまでもその言葉だけでなく人を感じようとすること、だとも思っています。
そうでないと、言葉の行き着く先は「違い」と「否定」でしかない。
(これは特に私の個人的な意見なので、同意頂けなくても構いません。)
ここまでで充分に長文ですので、以下は蛇足かとも思いますが、少しだけ。
『「言葉に敏感になるような人は、人の違いにも過剰に反応する」ということでしょうか?』
という部分ですが、私のコメントに“敏感になるような人”という意図が見えましたか?
私はそんなつもりはないですよ。第一、どこにもそのように書いていない。
『様々なことに敏感に反応できる感受性は、人間の進歩のためにも絶対に必要な事だと思います。
ただし、それをどう表現するか、反応として返すかが重要なのではないでしょうか。』
という部分に対して。
感受性と表現は全く別の話で、私はこの論点で触れていませんし、
『敏感に反応できる感受性』という表現には飛躍があり、ここでは同意しかねます。
それにそれに...「人間の進歩」というまた大きなテーマが出てきましたね。(笑)
イクルさんの仰る「人間進歩」って何でしょう。
イクルさんの表現の特徴なのかな...とっても急速な部分が。
雑文で、大変失礼しました。
レスはあってもなくても結構です。
投稿者 デュー : 2008年03月25日 11:06
デューさん
お返事ありがとうございました。
しかし、根本的に大きな勘違いをなさっているようですので、再度述べさせていただきます。
私はジョゴさんのコメントにある社会人という言葉を、日本で俗に使われる意である社会人という言葉だと理解していますし、普通の学校、普通の子という言葉に他意が無い事も分かっています。間違った言葉をジョゴさんが使われているとは、微塵にも感じませんし、その様なことは申しておりません。また、ジョゴさんへのコメントにも書いたように、その後の私のコメント(とブログエントリー)は、ジョゴさんやお母様を批判したわけでは全くありません。
あくまでも、言葉の難しさを話題にしただけのことです。当然ながらジョゴさんは私に謝る必要などはありません(次のエントリーでのジョゴさんのコメントを頂いてすぐにそう思いながらも、すぐに返答しなかった私も良くないですが)。
何度でも言いますが、あくまでもジョコさんのコメントをきっかけとして、「言葉の難しさ」をブログの題材にしたまでです。その事がデューさんに、ちゃんと伝わってくれると良いのですが。
お互い言葉の粗探しの様相になっていますが、また幾つかコメントを。
>>最終的に理屈で人は幸せになれないと知っているからです。
>>従って“もしこうだとしたら”という条件付けの下での話を
>>極力避け、できるだけ具体的なことを示したいと思っております
申し訳ありませんが、いきなり仰りたいことが良く分かりません。何度も考えましたが「条件付けの下での話」と「具体的なこと」が相対する言葉にはどうしても思えないのです。「抽象的なこと」の方が、おっしゃりたいことに則しているのではないでしょうか。
ちなみに私は「理屈で人は幸せになれない」と言い切るのはどうかと思いますけどね。
>>書き手がどういうつもりで言葉を使っているか
先ほども述べさせていただいた通り、ジョゴさんがどの様な意図で言葉を使っておられるかを、私は理解出来ているつもりです。しかし、それに対して私が書いたコメントやブログの意図を、デューさんは残念ながら理解されていないようです。
>>やはりやり方がフェアではありません。
全く同意できません。
意見を述べる場では立場が違って当然です。頂いたコメントに対し、思うことがあれば意見を述べ合い、議論が出来ることこそがフェアーな場です。何度でも言いますが、私はジョコさんやお母様を個人攻撃しているつもりは毛頭もありません。あくまでも「言葉の難しさ」をブログに書くきっかけとしただけです。
もしデューさんが、私の発言を「フェアーなやり方じゃないから、そんな事を言うな」と言うのでしたら、それこそがフェアーではありません。
さらに、立場が違うことから発言や行動が制限されるのならば、匿名(発言への責任はゼロに近い)のデューさんがこの場で私に云々言う権利は無いと解釈もできます(「も」が付いている意をちゃんと読み取ってください)。私のように少なくとも本名、家族背景、生活環境(おそらくスウェーデンで住んでいる場所、私の両親の仕事先、実家の場所もちょっと手間をかければ分かるはずです)などを、コメント発言者として登録し、公開した後に出直していただけますか?と、言うくらいにおかしい事です。
>>少なくとも他人の別物を引用する場で展開なさってはいけない。
残念ながら、これも全く意味が分かりません。私は「ジョゴさんのコメントをきっかけとして気付いたことがあった」との趣旨を述べています。引用の無い議論なんて不可能です。極端なことを言うならば、ジョゴさんの使われる日本語でさえも、「過去の他人の別物」を引用していることになりえます。
>>イクルさんはあくまでも「障害者」としての概念、括りで
>>お話をされていますか。私にはそこが見えない。定まらない。
私は障害者の家族にとっては、デリケートである「言葉の難しさ」を今回のブログの中で述べたつもりですが、デューさんには通じないようで残念です。
>>また「これまで通りに。」の記事の中に、『しかし、肉体的苦痛を伴うわけでもなく、正しい訓練を経れば、 -中略- この先にあるかもしれない試練なんか楽勝です。』
>>という部分がありますが、もしも誰かがこんな風に書いたらどうでしょう。
>>『うちの子は多少乱暴者でも、長い目で我慢強く接していけば、 -中略- 今のこの苦労なんて楽勝です。』
>>一体、このふたつにどれほどの違いがあるでしょうか。
うーん、138回くらい考えましたが、全然違うと思います(私は元々こういう物言いをします)。お互いの文章の読み取り方が違いすぎるのかもしれません。というよりも、何をおっしゃりたいのか全然理解できません。
>>言葉をデリケートに使いたいという願いがブログ上で見受けられるだけに、
>>私にはとても残念でした。言葉の限界とは、案外身近にあるものです。
何を勘違いされているのか分かりませんが、私は「言葉の持つ様々な意味、響き」についてこのブログ上で述べただけです。限界呼ばわりされても困るのですが、元来、私は超きつい言葉を平気で使います。むしろそういう発言が好きですし、楽しんだりすることもあります(弱い者を蔑むなどという意味ではありません)。今回のブログでは丁寧な物言いをしていましたが、次回は180度変わる可能性だって多分にあるでしょう。実際、当ブログ上でも、読み方によっては人を不愉快に感じさせ得る発言を何度もしています。1000を超えている記事から見つけるのは困難ですが、すぐに思いつくあたりではこれとか、このへんでしょうか。
>>レスはあってもなくても結構です。
レスが無くてもよいのに書き込まれるコメントは、私のサイト容量を圧迫するだけの無意味な物と見なされ、状況次第では削除扱いになる可能性がありますのでご注意ください。無くても良いなら書き込まなくて結構ですよ←これが私の本当の姿です。思いっきりフェアーじゃないですね(笑)。
もちろん、レスします(笑)。
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shizukaさん
はじめまして。
なぜか頂いたコメントがコメントフィルター(広告コメントなどを排除します)に引っ掛かっておりまして、気付くのが遅れてしまいました。
>イクルさんご家族の、お子さんの個性を育てていらっしゃる姿が
ありがとうございます。でも、ただの親バカなだけの可能性が高そうです(笑)。
投稿者 いくる : 2008年03月25日 19:24
以前から拝見しておりました。
今回の件とは余り関係ないのかもしれませんが、ついでということで書かせてください。
これはイクルさんのサイトに限ったことではないと思いますが、
子供が知らないところで(或いは知っていたとしても子供には意味が分からないところで)、
親が子供の写真をサイトに乗せて、その外見や性格、あるいは特徴を語ること、
写真や名前がウェブに乗り、情報を公開することが、
子供にとって将来どういう影響をもたらすのだろうかと、
倫理とは別の意味で、どこかしら不安というか、心配を感じることがあります。
検索エンジンにクロールされ、キャッシュた情報が、
結果的には、個人の人生そのものをキャッシュして、
その人の裏の履歴書となってしまうような不安です。
(新しく出会った人の名前をGoogleで調べることは今の時代、もう珍しい事ではないと思います。)
それはやがて大人になる今のデジカメ&ウェブ世代を親に持つ子供たちにとって、
不幸なことなのか、幸福なことなのか。今はまだ誰も分からないのかもしれませんが、
将来自分が大人になったとき、Googleで自分の名前を調べてそこに色々な情報が
書かれていたとしたら、それはその子供にとって、どんな経験となるのか、
なんてことを良く思ったりします。
投稿者 匿名です。 : 2008年03月26日 07:43
匿名です。さん
>倫理とは別の意味で、どこかしら不安というか、心配を感じることがあります。
この点は判断の難しいところですが、私は親の責任で今は行うことであると考えます。ある程度の段階でその事について本人とも話さなければいけないかもしれません。しかし、このブログは決して「裏」の履歴書とは思いません。
事件の被害者になり得るかもということも、時々問い合わせが有りますが、私の考えでは全く心配有りませんし、心配するだけ無駄です。それにネットに出たくらいでリスクがどんどん増えるとするならば、芸能人、有名人は人前に出ることは不可能でしょうね。
要は確率の問題です。仮にブログに写真を載せたことで危険が増えたとします。そのリスクは0には決してなりませんが、どう悲観的に考えても0.1パーセントにもならないはずです。おそらく0.01パーセントにもなりません。これが意味する事は、まず問題はあり得ないということ。起こりえない事なんです。
おそらく道ばたで交通事故に遭う可能性の方がはるかに高いでしょう。シートベルトをしないで子供を平気で車に乗せる親ならばさらにリスクは増えます。ベルトをしていないことで、後部座席の子供だけ車外放出し、大けが(へたしたら即死)なんて話しはしょっちゅう聞きますよねです。幼稚園バスなんてもう危険の固まり。弱い子供ばかり乗っているのに、誰一人ベルトはしていません。それどころかベルトさえも備わっていません。誰一人としてベルトをしなければという意識さえありません。軽い追突事故でも起こしたら、どうなるか容易に想像できますよね。幼稚園バスが子供をひいたなんて話しも最近ありました(しかも数件)。
しかし、ネットに載っている子供を狙ったという話しは聞いたこともありません(気付いていないだけかも知れませんが)。ネットに写真を載せるリスクを考えるくらいだったら、世の中にもっとある他の危険の心配をしていた方がまだ利口だと僕は考えます。
では、99.9パーセントは問題ないとはいえ、起こる可能性がある残り0.1パーセントをどうするか?
僕は家具製作をする時に機械を使って作業をする時間が多くあります。999回は適切に使えてOKだとしても、最後の1回で超高速で回転する刃物にふれて指を飛ばしたらやっぱりアウトです。確率は低くても気を抜く事は出来ません。ここで考えないといけない事は、0.1パーセントの確率をさらに可能な限り下げる事。子育ての場合、子供を的確に守ってあげられるか、良い方向に育てるという点は全て親の責任です。
ネットに載せる事でリスクが増えても、減らす為の気配りも十分にできるはずです。
上のコメントに、我が家は簡単に判明するでしょうと書きましたが、”その気になれば”と追加しておきましょう。ちょっと手間がかかります。これだけだってリスクを減らす要因になるはずです。
ちなみにスウェーデンでは、名前や電話番号から、住所(地図付き)、誕生日、他の連絡先、メールアドレスなどがネット上で簡単に調べられてしまいます。例えば携帯電話に着信があったとして、誰からか分からないなんて時には、先に調べることが普通に出来てしまいます(しかも無料で)。個人売買をするような人には安心かも知れませんが、ちょっとこれは、大丈夫なのかなー?とも思ってしまいます。もうちょっと規制した方が良いとも思いますが、しかし、これで事件が増えているなんて事も聞いたことはありません。
確かに今回のブログの内容とはそれてしまいましたが、この辺のことも、いずれまたブログのネタにすると面白いかもしれませんね。
投稿者 いくる : 2008年03月26日 14:36


